この仕事を選んだ私 救急総合診療センター 救急科 副部長 佐藤友子
文系コースから医学部を受験。
幼稚園の卒業文集を見返すと、将来の夢に「日本舞踊かバレーボールの先生」と書いています。日本舞踊は、3歳のときにトラックに轢かれて、一命は取り留めて、骨折のリハビリで一応習っていましたが、バレーボールは、父親が地元チームの監督をしていて、それについて行っていただけでプレーしたことはなかったのに。なぜ踊り手でも選手でもなく先生になりたかったのかは我ながら謎です(笑)。
小学校の頃、テレビ番組でユニセフのアフリカ支援活動が紹介されているのをたまたま見て、子どものくせになぜか「私が行かなきゃ」って思った。それで、行くために最も手っ取り早い方法は?と考えて、医療の仕事を意識し始めました。野口英世など医療系の偉人の伝記を読んだり、母親が看護師だったのも影響していたと思います。ドラマでよくある、飛行機で「お医者さまはいませんか?」の場面で手を挙げたい!という強い憧れがあったことも記憶しています(笑)。
大学受験は、とにかく数学が壊滅的に苦手で、国語と英語は得意だったので、予備校の学費が免除になると言われて文系コースでした。でもやっぱり「医師になりたい」という想いがダダ漏れだったのか、年度の途中でチューターさんが「悶々とするくらいなら、医学部受けたら?」と言ってくれて、そのまま医学部受験のカリキュラムも組んでくださって。そのチューターさんは今でも年賀状をやり取りする恩師です。
多職種と連携する治療が刺激的だった。
合格したのは、特定の専門に限定せず様々な専門を横断的に学ぶ「総合診療」という分野の草分け的な大学でした。研修先を決めるとき、教授から「好きに計画を立てていいよ」と言われて、本当に好きなようにいくつもの診療科を”つまみ食い”しました。そして、その中で最も充実感があったのが救急医療でした。
医師や看護師はもちろん、薬剤師、管理栄養士、救急救命士など多様な職種の方々と密に連携する仕事が刺激的で。現在では多職種のチーム医療は増えていますが、当時は珍しく、毎日が目から鱗でした。
明日からスリランカへ行けますか?
その後、国際医療援助の研修を受ける機会があり、それはさらに多くの職種がチームで治療に当たる内容でした。いつ海外から依頼があっても出動できるよう、合宿でシミュレーションを重ねる。充実感たっぷりで、メンバーの個性と連帯感も濃密で、「いつでも行けるぞ」という仕上がりでした。
2004年末のある朝。テレビで「インド洋沖で津波」という速報が流れると、すぐ「スリランカに行けますか?」という連絡。年末年始の当直を調整して、翌日の朝7時には私を含む研修メンバーが成田に揃っていました。
向かったのは、通常は渡航許可が出ない、過激派の本拠地がある地域。病院も倒壊していたため小学校の敷地にテントを建て治療に当たっていく。驚いたのが、集まったメンバーのチームワークが完璧に近く、普段日本でしている診察や治療の技術がほぼそのまま役立ったこと。しかも私は、お腹を壊しても痛みもないし熱も出ない。だから元気。どうやら体質的に、こういう非常事態の現場に向いていることも実感できました。
どんな状態の患者さんが来るかわからない。
大学で学んだ「総合診療」。そこで出合い、現在も関わっている「救急医療」。子どもの頃からの夢で、現場にも立った「災害医療」。この3つは「どんな状態の患者さんが来るかわからない」という意味で、私の中ではリンクしています。そして多職種で連携して解決していくプロセスなどが、自分にとても合っていると感じます。特定の専門はないですが、逆に広く俯瞰して見られることが一つの専門性かな、と考えています。
医師になりたいと言ったとき、両親は特に何も言わず自由にさせてくれた。大学の教授も、希望をほぼそのまま受け入れてくれた。救急救命士をしている夫も相当忙しいのに、家事子育てをシェアしながら、しかも私の機嫌を察知して上手くなだめてくれる。いま5歳の双子は、大きな病気もせずすくすく育ってくれている。大らかで優しい人たちに囲まれたおかげで、今日の私があります。