この仕事を選んだ私 中央検査部技師長代行 田上圭二
動物に囲まれて育った子ども時代。
次男坊で、わりと親の言うことを聞く子どもでした。兄は体が弱かったから、家の手伝いを命じられるのは自分で。家庭菜園とか日曜大工とか家電の修理とか。犬とウサギとニワトリと鴨とアヒルと鯉を飼っていたので、その世話も。犬は覚えている限り5匹、鴨とアヒルも数羽いました。それで小学校3・4年頃まで飼育員が夢でした。憧れの対象が変わったのは、父の仕事を見てから。小学生の頃、父は放射線技師だと思っていましたが、実際は胸部X線検診車の運転手。学童検診で補助する白衣姿の父を見て、かっこいいなぁと。漠然と「白衣を着る仕事に就きたい」と思うきっかけでした。
小学校・高校はサッカー、中学はバスケと、部活動にも励みました。中高は先輩が厳しく「気が緩んでいる、斜面で逆立ちしろ」なんて指導も。規律ある集団で、礼儀や協調性が身についた気がします。中学の頃、臨床検査技師の親戚に話を聞いたことや両親の勧めもあり、臨床検査技師を目指すようになりました。
短大時代の実習が人生の転機に。
進学した短大は同級生の9割が女性。そのせいで学校の女装コンテストに男子学生全員が強制出場させられたんです。優勝しましたが、そんなに嬉しくなかったです(苦笑)。
学校の実習で13歳上の先輩検査技師と出会ったのが転機になりました。難しい病理の作業をサクサク進める先輩にすごく感動しましたね。作業のコツや事前準備、段取りなどわかりやすく教えてくれました。先輩が勤めるこの病院に興味を持ち臨地実習へ。改めて病理の仕事の奥深さと面白みを学びました。実習の終盤、先輩から「延長してみる?」と言われて。実習の延長はそうありませんが、特別に1週間延ばしてもらえることに。その際、採用試験を受けないかと言われました。先輩がいるこの病院で働きたかった私は願ったり叶ったりで。入職後、先輩に「自分が推したから結果は残してね」とプレッシャーをかけられました(笑)。あのとき先輩が声をかけてくれなければ、今ここにはいなかったと思います。
細胞の向こうに治療を待つ患者さんがいる。
入職して先輩は上司になりました。おおよその業務は実習で把握したものの、実務になると知識不足・技術不足を痛感。特に細胞診は難しく、医師の最終診断の―つ前の段階で、検査技師として判断する必要があります。患者さんの診断を左右するので責任重大です。正常に見えても注意深く見たら悪性細胞だった症例もこれまでに数例あります。入職以来ずっと難しいと感じていますが、一方でやりがいも大きい。それは「検体の向こうに患者さんがいる」と先輩に教わったからです。私たちは患者さんと直接話す仕事ではありません。でも私たちの判断が患者さんの治療に、利益に、直接つながっている。私たちの判断はただの診断結果ではないんです。
臨床検査技師として誠実な仕事をしたい。
約20年前になりますが、恩人である先輩が急な病気で亡くなりました。当時私は30歳すぎで、最終的な診断を一人では出せない状態。まだまだ教えてもらおうと思っているところでした。部署内で一番上の立場になり責任も大きくなった。ショックで「あちゃー…」となりましたね。
それで苦手な領域も含めてもっと勉強しました。先輩に頼りっきりだった未熟さを自覚していたので、必死でした。経験を重ねた今、もう一つ心がけているのは「判断に迷ったら無理しない」こと。白黒はっきりした方がいいのは大前提。でもわからないときは正直にわからないと決断する。「疑い」に留めれば診断が難しいことは伝わるし、所見にも書くでしょう。すると臨床側の対応も変わると思うんです。再検査の選択肢も出てくるかもしれません。検査した細胞の先に治療を待つ患者さんがいると思うからこそ、あえてグレーな見解を伝える決断もあると思っています。
これからの目標は、検査技師全体のレベルアップにつながる仕組みをつくること。臨床で働く検査技師を増やしたいとも思っています。チーム医療の一員になり活躍の場が広がれば、と。この病院は規模が大きいからこそ、次世代の検査技師を育てる役目もあります。実習で先輩に憧れて自分が入職したように、職員と実習生が関わる機会をつくることで、当院を目指す学生が増えるといいなと思います。