この仕事を選んだ私 医療福祉相談室 医療ソーシャルワーカー 主任 宮崎 裕子
おじいちゃんおばあちゃん大好き。
長女で初孫。両親が共働きだったこともあって、一緒に住んでいた祖父母からたくさんの愛情を受けて育ちました。祖父母が大好きすぎて、保育園を勝手に休んで家でのんびり過ごす日も珍しくなく、すぐ近くだったので友達や保育士の先生たちが散歩がてら様子を見に来ることも。相当マイペースな子どもだったと思います。
打たれ弱くて泣き虫でもあったらしく、幼少期のアルバムは大泣きしている写真ばかり。両親はそれを面白がるタイプで、泣くたびに写真を撮って、アルバムに追加して、を楽しんでいたようです(笑)。
「人の心を学べば悩みを解決できるのかな」。
今でもそうですが、感情移入しやすい気質でした。中学生になると、自分も周囲もいろいろ悩みを持つようになる年頃。進路選択に悩んで友達が落ち込んでいるのを見ると、それに対して何もできない無力さが嫌になって自分まで凹んだり。田舎の小さな学校だったので友達との関係性が深かったのも背景としてあったと思います。そういう時にふと「人の心について学べば、解決できることもあるのかな」と考えるようになりました。
そんな中学生の後半ごろに「臨床心理士」という仕事があることを知り、ぼんやりと将来の選択肢として意識しはじめました。
中学のバスケ部から特待生で高校は陸上部へ。
部活は、中学まではバスケ。自分としては今でも決して運動神経が良いと思わないのですが、背が高いという理由で参加した大会の走り高跳びで、思いのほか好記録が出て入賞してしまい、高校はスポーツ特待生として陸上部に入りました。
高校は寮生活で部活中心の生活でしたが、その後はあまり良い結果を出せず、他の選手のサポート役にまわることが多くなりました。選手としては不本意でしたが、おせっかいで放っておけない性格だったのでそれが嫌ではなく、「私は自分が目立つより、誰かの活躍を支えるほうが性に合っているかも」と感じるようになりました。この考え方は現在の仕事まで、ずっとつながっています。
臨床心理士からソーシャルワーカーへ志望変更。
中学時代からの心理学への関心と、高校時代に気づいた人を支えることの充実感。そんな想いから、臨床心理士をめざせる大学に進学しました。
大学時代のアルバイトでいちばん長く続いたのはスターバックス。「お客さまが何を求めているかを常に考えること」を教わりました。ここで学んだホスピタリティの視点も、今の仕事に役立っています。
転機になったのは、2年生のある講義。現役の臨床心理士の先生が「自分たちは患者さんの話を聞くのが仕事だけど、ソーシャルワーカーは話を聞くだけでなく、生活課題の解決のために、あちこち動き回って患者さんのために靴底をすり減らしている。すごく立派な仕事」と称賛されていました。その話に「ビビッ!」ときた私は、さっそく仕事内容について調べ、実際に話を聞きに行き、気づくと完全にその気になっていました。ちょうど3年生に上がる前のコース選択のタイミングだったので、ソーシャルワーカー養成コースに進みました。
患者さん一人ひとりの“物語”に思いを馳せる。
ソーシャルワーカーの仕事は、「よろず相談所」。お金のこと、生活のこと、退院後の治療・療養の続け方、どんな制度を利用できるか…など。あらゆる知識や社会資源を駆使して、患者さんの困りごとを解決していく。大学の講義で聞いた以上にやりがいがあります。
医師、看護師をはじめ、患者さんに関わる多くの職種の中でも、特に「患者さん目線に立つことが求められる仕事」です。他職種のスタッフと患者さんとの板挟みになって悩むこともありますが、「それぞれプロとして意見しているだけで、患者さんのためという目的は同じ。みんなが納得できる最適解を探していく」という視点を大切にしています。
座右の銘は「患者さんのストーリーに責任を持つ」。当院の医療連携部で大切にし続けている言葉です。目の前の情報だけでなく、患者さんのそれまでの人生やご家族の状況など、背後にある“物語”にまで想像力を働かせることの大切さ。今でもこの言葉を思い浮かべるたび、背筋がピンと伸びます。