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済生会熊本タイムズ

地域に最先端の医療をいち早く提供する当院の取組みや様々な情報をご紹介します。

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この仕事を選んだ私 看護管理室 看護部長 牛島 久美子

この仕事を選んだ私 看護管理室 看護部長 牛島 久美子

 

とにかく元気がありあまっていた

4人きょうだいの末っ子。兄3人が続いた後の念願の女の子で、とても大事にされました。とはいえ、少々帰りが遅くても何も言わないような自由放任な親で、「自分のことは自分で考えなさい」という感じでした。小6の時、山鹿から熊本市内まで自転車で、友達と往復6時間かけて松本伊代ちゃんを見に行ったのが記憶に残っています。とにかく元気がありあまっていて、おかげで行動範囲も広かったと思います。

小学生の頃は「涼しげでかっこいい」と銀行員さんになろうと思ったり、『スチュワーデス物語』を観てキャビンアテンダントに憧れたこともありました。

軍隊のような寮生活

高校生になって将来のことを考え始めると、まず「堅実な仕事がいい」と思いました。公務員とか、国家資格とか。何になりたいという具体的なものは無く、とにかく先を見据えて安定したいという思いが強かったです。

看護師をはじめ医療の仕事を選ぶ方は、「身近な人が救われるのを見て憧れた」とか「人の世話をするのが好きだった」という志望理由が多い気がしますが、私の場合はそういうことはなく、堅実な国家資格なことと、あえて言うなら「インスピレーション」でした。自分でも未だに、この仕事を選んだ理由はわかりません。誰にも相談しなかったし、友達と一緒ということもなく、一人で医療系の専門学校に進みました。

その専門学校の3年間が、今の自分を築いた礎だと思います。とにかく厳しい寮生活で、窓は新聞紙で拭き、庭の草むしりも自分たちで。お風呂は皆で同じ方を向いて入るとか不思議なルールもたくさんありました。起床は毎朝6時に鐘が鳴って(それも自分たちで鳴らして)21時に消灯。勉強用の机の蛍光灯以外は、暖房も含めた電気ぜんぶが消えるので、冬は本当に寒かった。軍隊のような毎日を通じて「与えられた環境で、力を合わせて楽しみながら何とかして乗り切る」馬力と精神力が身につきました。

前向きな性格です

門学校を出てからずっと、この病院ひとすじです。大変なことはたくさんあった気がしますが、あまり憶えていなくて。ピンチも、そのつど親切な人に助けてもらい、皆で明るく乗り越えてきたと思います。他人事のように話していますね(笑)。昔のことをしっかり憶えている方もいますが、私は上手に忘れちゃうタイプのようです。

ただ新人看護師時代のことはよく覚えています。例えば、入職して間もないころ、ある患者さんが急変したとき、同僚の看護師はその事実を受け止めきれず、泣いて走り去ったことがありました。やさしい人で、患者さんに感情移入していたからだと思います。一方、それを見ていた私は「ご家族はどんな心境か、さてここから何をすべきか」という思考になり、悲しみ以上に「ちゃんとしなきゃ」という責任感が上回って、そのまま業務を続けていました。ついつい客観的に見てしまう。ドライにも聞こえますが、逆に言えば冷静に目の前のことに向きあえる性格なのかな、と思います。

価値観が違って当然と思えるように

辛いことがあると、クヨクヨはします。でも一日だけと決めています。何が辛いかを具体的に書き出して、これは悩んでも仕方ないとか、これはあの人に相談しようとか、整理して解決するようにしています。

管理職になった時期と、子育てが大変な時期がちょうど重なりました。でも仕事を辞めようとは思わなかった。家庭も仕事も大変でしたが、そんな時にプロジェクトを任されたり、研究会での発表を勧められたり。すると、とても忙しいはずなのに、それを上回る充実感が得られて、むしろもっとやる気になっていく。

とはいえ当時は、病棟の患者さんやスタッフの管理がうまくできず、泣くこともありました。そんな時、家族や同僚はもちろんですが、仕事以外の人間関係に救われました。自分とまったく違う職業の人、専業主婦の人、いろんな立場の人と話すうちに「ああ、ものの捉え方って人によってこんなに違うんだ」など、むしろ価値観が違うことが当然と思えるようになって。いろいろな方とのコミュニケーションでも、相手が持っている情報やこれまでの経験で解釈が違うことを理解しなきゃ、と考えられるようになりました。そこから、「今日の自分があるのも多くの方々に助けられたから」という感謝の気持ちも強くなったように思います。

よく仕事の夢で寝言を言って、夫から「夢の中でも仕事しているのか」と呆れられます。我ながら大丈夫かな、と思うこともありますが、おかげさまで元気で仕事も楽しいので良しとしています。

 

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